2021-05-19 第204回国会 参議院 本会議 第23号
子供の頃から保育園の先生になりたいとの夢を持たれ、敬和学園高等学校を経て、玉川大学文学部芸術学科児童専修課程を御卒業、保育士の資格を取得されました。 平成四年四月から伊藤忠記念財団に勤務をされ、全国子供文庫に対する助成など、児童館活動、野外活動に携われました。そこで出会ったお母さんたちの声なき声を伝えたいとの思いを抱かれたことが政治家としての原点であると伺っております。
子供の頃から保育園の先生になりたいとの夢を持たれ、敬和学園高等学校を経て、玉川大学文学部芸術学科児童専修課程を御卒業、保育士の資格を取得されました。 平成四年四月から伊藤忠記念財団に勤務をされ、全国子供文庫に対する助成など、児童館活動、野外活動に携われました。そこで出会ったお母さんたちの声なき声を伝えたいとの思いを抱かれたことが政治家としての原点であると伺っております。
いろんな災害というのは忘れた頃にやってくるといいますけれども、特に私の地元の小貝川と利根川のところが、ちょうど四十年前に小貝川の決壊がありまして、当時、私の地元の衆議院の先生が中山利生先生という、これは梶山先生のお父さんと同じ田中角栄さんの門下生で、当選同期でありまして、梶山静六先生の当選同期には小沢一郎さん、それから渡部恒三先生、奥田敬和さん、そうそうたるメンバーがいましてですね。
ただ、これは古屋自治大臣のときも中島部長答弁でありましたし、それから、もう少し古い世耕自治大臣の時代も、審査は迅速にやると大臣答弁があり、それから今の柳部長の答弁もあり、九〇年に、当時奥田敬和さんが自治大臣のときですが、この間まで自民党の理事席にいらっしゃった滝さんが公務員部長で、認定業務は迅速処理が基本原則だと。
なぜかといいますと、私、たまたま自分でこのことを過去に質問した経験がありましたので、一生懸命会議録を探してみましたら、平成二年の六月十三日の衆議院の交通安全特別委員会で、当時、国務大臣は奥田敬和大臣で、国家公安委員長を兼ねた自治大臣です。
この第一回のシンポジウムに当たりまして当時の奥田敬和運輸大臣が、意思決定に当たって地元の方々に事前に十分説明し、その理解を得るための努力が十分に尽くされたとは言い難い、それは何といっても空港を建設する側の私たちの努力が足らなかったことによるものであり、誠に遺憾に思うという御意見を述べられておるわけでございますけれども、成田新法の施行に当たりまして、改めて扇大臣の御所見をお伺いしたいと思います。
鳩山邦夫君が、本解任決議案を機に、先ほどの趣旨弁明に述べられておりましたように、奥田敬和元議院運営委員長の態度を見習い、一刻も早く昔の政治信条を思い起こし、今回の行動を深く反省することを切に願い、私の賛成討論とします。(拍手)
それにつけても、私は、故奥田敬和先生のことが思い出されます。 奥田敬和先生は、細川連立政権のときに議院運営委員長に就任されております。所属は新生党でありました。奥田敬和先生は、新生党の議員控室に来て、私は議院運営委員長になったので、これから新生党の役員会あるいは会議、行事に一切出席しない、そういう立場で議運に臨むんだということを我々に表明しました。
今の民主党の奥田議員の御尊父奥田敬和先生が団長で、私が幹事長役で関係者を御案内したことがあります。半分は、安全かなということを私自身大変気をもんだところでありますが、この際やはり予定どおり実行しようと。海外からのお客様はあなた方が初めてだということで、大変喜んでくれました。
なお、一言つけ加えさせていただきますと、私は今奥田建委員の御質問をお聞きしながら、また、今こうしてこの席に立ってお答えをしながら、今は亡き奥田敬和元運輸大臣のことを思い起こしております。大変お世話になってまいりました。
奥田さんといえば敬和先生、私が政務次官をしていますときの自治大臣でございまして、こうしてこの席で答弁に立つのも何かの御縁かと思います。 新幹線のことでございますが、新幹線は、昭和三十九年に開通いたしましてから、本当に日本の国土軸としての大きな役割を果たしてまいっております。東海道、そしてまた山陽、東北の方にも延びてまいりました。
太平洋戦争の末期、祖国の風雲急を告ぐるとき陸軍士官学校にともに学んだ同期の桜が、君の同郷、同期の友奥田敬和君に続いて、また一輪、散り行く君に哀悼の辞を送る悲しみを越えて、私は、君の志を継ぐため同僚議員とともに全力を尽くすことを誓います。
ただ、大変たくさんの方々の御努力、特に亡くなりました奥田敬和運輸大臣の、平成三年の第一回のシンポジウム、これが私はこの空港の問題を大きく転換した一つの契機だったというふうに思っております。そして、隅谷調査団長を初め、円卓会議というものを十二回やった、あるいはその前のシンポジウムは十五回もやった。
件及び一般会計における債務の承継等に伴い必要な財源の確保に係る特別措置に関する法律案を審査するため委員四十人よりなる日本国有鉄道清算事業団の債務処理及び国有林野事業の改革等に関する特別委員会を設置するの件(議長発議) 国会等の移転に関する調査を行うため委員二十五人よりなる国会等の移転に関する特別委員会を設置するの件(議長発議) 田中眞紀子君の故議員住博司君に対する追悼演説 瓦力君の故議員奥田敬和君
○瓦力君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員奥田敬和君は、去る七月十六日、半蔵門病院において御逝去されました。 あたかも生涯戦場にあったかのごとく、常に憲政の正道を追い求め、きっすいの政党政治家として御活躍された君が、御家族皆様の手厚い御看護の中で静かにこの世を去られたのでありました。いかに天命とは申せ、まことに痛惜の念にたえません。
議員奥田敬和君は、去る七月十六日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。 奥田敬和君に対する弔詞は、議長において去る七月十九日既に贈呈いたしております。これを朗読いたします。
次に、議長から、故議員奥田敬和先生に対する弔詞贈呈の報告がございまして、議長が弔詞を朗読され、続いて瓦力さんの追悼演説がございます。 本日の議事は、以上でございます。
――――――――――――― 衆議院は 議員従四位勲三等住博司君の長逝を 哀悼し つつしんで弔詞をささげます ………………………………… 衆議院は 多年憲政のために尽力し 特に院議 をもってその功労を表彰され さきに外務委員 長予算委員長議院運営委員長等の要職につき またしばしば国務大臣の重任にあたられた議員 正三位勲一等奥田敬和君の長逝を哀悼し つつ しんで弔詞をささげます
○中川委員長 次に、議員住博司君及び議員奥田敬和君逝去の件についてでありますが、去る七月十一日、富山県第二区選出議員住博司君が、また、去る七月十六日、石川県第一区選出議員奥田敬和君が逝去されました。 ここに謹んで哀悼の意を表します。
伊藤 英成君 伊藤 忠治君 家西 悟君 池田 元久君 池端 清一君 石井 紘基君 石井 一君 石毛 鍈子君 石橋 大吉君 岩國 哲人君 岩田 順介君 上田 清司君 生方 幸夫君 枝野 幸男君 小沢 鋭仁君 大畠 章宏君 岡田 克也君 奥田 敬和君
伊藤 英成君 伊藤 忠治君 家西 悟君 池田 元久君 池端 清一君 石井 紘基君 石井 一君 石毛 鍈子君 石橋 大吉君 岩國 哲人君 岩田 順介君 上田 清司君 生方 幸夫君 枝野 幸男君 小沢 鋭仁君 大畠 章宏君 岡田 克也君 奥田 敬和君
防衛庁長官官房 長 大越 康弘君 委員外の出席者 安全保障委員会 専門員 平川 日月君 ————————————— 委員の異動 四月三十日 辞任 補欠選任 下地 幹郎君 大村 秀章君 仲村 正治君 萩野 浩基君 山崎 拓君 桜井 郁三君 奥田 敬和君
外務政務次官 高村 正彦君 外務省北米局長 高野 紀元君 委員外の出席者 安全保障委員会 専門医 平川 日月君 ————————————— 委員の異動 四月七日 辞任 補欠選任 宮島 大典君 佐藤 勉君 同月十四日 辞任 補欠選任 石井 一君 奥田 敬和君
房長 堤 英隆君 農林水産省経済 局長 熊澤 英昭君 農林水産省構造 改善局長 山本 徹君 食糧庁長官 高木 勇樹君 委員外の出席者 農林水産委員会 専門員 黒木 敏郎君 ————————————— 委員の異動 四月十四日 辞任 奥田 敬和君
組合連合会常務 理事) 片桐 純平君 農林水産委員会 専門員 黒木 敏郎君 ————————————— 委員の異動 四月九日 辞任 補欠選任 金田 英行君 小野 晋也君 木部 佳昭君 田中 和徳君 中尾 栄一君 大石 秀政君 御法川英文君 佐田玄一郎君 奥田 敬和君
農林水産委員会 専門員 黒木 敏郎君 ————————————— 委員の異動 四月二日 辞任 補欠選任 石破 茂君 大村 秀章君 小野寺五典君 宮島 大典君 金田 英行君 吉田六左エ門君 木部 佳昭君 田中 和徳君 中尾 栄一君 大石 秀政君 宮本 一三君 滝 実君 奥田 敬和君
調 整局総務課長 知久多喜真君 外務省アジア局 東北アジア課長 佐々江賢一郎君 厚生省生活衛生 局乳肉衛生課長 森田 邦雄君 農林水産委員会 専門員 黒木 敏郎君 ――――――――――――― 委員の異動 三月二十六日 辞任 補欠選任 神田 厚君 奥田 敬和君